私はアリストテレースが『ニコマコスの倫理学』で何かの折に表明した「賢者は快楽を求めず、苦痛なきを求める」という命題が、およそ処世哲学の最高原則だと考える。
解説
アリストテレースの命題は、享楽や幸福が「消極的な性質」のものであるのに対し、苦痛は「積極的な性質」のものだという点に基づいている。
例えば、全身は健康だが、どこかに痛い個所があると、意識は絶えず痛みの個所に向けられ、全身の健康という生命の喜びは感じられなくなる。
また、仕事や生活など万事が思い通りだが、ただ1つ思い通りにいかないことがある時、このことが絶えず頭に浮かび、それ以外の思い通りになっている事柄はほとんど考えない。
こうした事実があるから、アリストテレースは享楽・快楽を求めるのではなく、人生の災厄を逃れることに尽力すべきだと教えるのである。
作家のヴォルテールも、言っている。
「幸福は幻にすぎないが、苦痛は現実である」
従って、自分の人生を振り返る時は、享楽による喜びを数えるのではなく、逃れた災厄について考えるべきである。
「幸福に生きる」ということは、「あまり不幸でなく」、すなわち、我慢できる程度に生きるということだと理解すべきである。
もとより人生は、本来、楽しむべきものでなく、克服し、始末をつけるべきものなのだ。
編集部のコメント
『幸福について ―人生論―』は、真の幸福とは何か、幸福な人生を送るには何が必要かを論じた書です。
著者は、19世紀ドイツを代表する哲学者、アルトゥール・ショーペンハウアー。彼の主著である『意志と表象としての世界』は、ヨーロッパのペシミズム(厭世主義)の源流となり、同じドイツの哲学者ニーチェや小説家トーマス・マンらに影響を与えました。
「人生は最悪の世界だ」。そう説く“厭世哲学者”ショーペンハウアーが、「幸福」について風刺とユーモアたっぷりに論じているところに、『幸福について』の1つの特色があるといえるでしょう。
ちなみに、原著のタイトルは『幸福について』ではありません。
本書で訳出しているのは、ショーペンハウアーが1851年に著した『筆のすさびと落穂拾い』(随想集)の中の一編。その原題は、『処世術箴言』です。
このタイトルからもわかるように、本書では、格言や詩文など、様々な箴言を引用しています。上掲のアリストテレースやヴォルテールをはじめ、その範囲は時代や分野を超えて様々。使い古された決まり文句は避け、ショーペンハウアーが「叙述の価値あり」と認めたものを取り上げて、人生の意義や幸福の本質を描き出しています。
『幸福について』は、原著刊行から100年余り後の1958年に出版されました。以来、60年以上にわたって読み継がれています。
時の流れに耐えて残ってきた数々の思想家の言葉は、今日でもなお色褪せません。本書は、現代社会を生きる私たちにも多くの示唆を与えてくれる古典的名著です。




