
2023年8月24日、福島第一原子力発電所の処理水の海洋放出が開始されました。
IAEA(国際原子力機関)からも国際安全基準に合致しているとの評価を得た、科学に基づく処理です。放出開始後に環境省が行った海域モニタリングでは「トリチウムの濃度は11か所全てで検出下限値未満」とされており(「ALPS処理水に係る海域モニタリングの結果について」/環境省HP 2023年8月27日)、現在までのところ人や環境に対する安全は確保されているといえるでしょう(もちろん、それとは別に、風評被害の防止に万全を期す必要はあります)。
ですが、この件について、中国は激しく反発しています。処理水を「核汚染水」と呼び、放出の前には「必要な措置をとって、海洋環境、食品の安全、国民の健康を守る」などと述べています(「中国外務省 日本大使呼び抗議 処理水放出の方針決定受け」/NHK NEWS WEB 2023年8月23日)。
一方、報道によると中国では、原発によっては福島第一原発の約6倍ものトリチウムを含む処理水を放出しているところもあるとのこと(「中国の複数原発がトリチウム放出、福島「処理水」の最大6・5倍…周辺国に説明なしか」/読売新聞オンライン2023年6月23日)。
矛盾するように見える中国の態度は、感情的になかなか受け入れ難いものがあります。ですが、相手のペースに吞まれないためには、そうした感情面はさておき、中国の対応が一体どのような戦略に基づくものなのかを冷静に理解する必要があるでしょう。
今週Pick Upするのは、その中国の対日戦略について“古典”という切り口から示唆を与えてくれる本、『中国戦略“悪”の教科書 『兵法三十六計』で読み解く対日工作』(上田篤盛/並木書房)です。
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本書の核になるのは、中国における兵法書『兵法三十六計』です。元防衛省の情報分析官である著者、上田篤盛氏は、この書を次のように評しています。
中国には『孫子』と並び称されるもう一つの兵法書がある。それは『兵法三十六計』(以下『三十六計』)である。『孫子』は為政者が愛用した崇高な哲学経典であったが、『三十六計』は日常を生きる実践哲学として、『孫子』よりも民間において広く流通した。その教えは今日まで継承され、現代中国人はビジネスや国際政治、国内政治において有利な立場を築くために『三十六計』を『孫子』以上の実用書として参考にしているという。
(『中国戦略“悪”の教科書』 3ページ)
「『孫子』以上の実用書」とは驚きの評価ですが、『中国戦略“悪”の教科書』を読めば、その評価に恥じないほど『兵法三十六計』が深く中国の戦略に入り込んでいることがわかります。
例えば、第七計の「無中生有(むちゅうしょうゆう)」。虚偽の事実をでっち上げ、その間に着実に実態を整える戦略のことです。
その実践例の1つとして本書が挙げているのは、南シナ海における実効支配圏の拡大です。
まずは「中国古来の歴史的領土」と主張し、(信憑性の怪しい)証拠を持ち出してその主張を補強する。さらに、海面にわずかに顔を出す程度の岩礁を少しずつ埋め立て、いつの間にか滑走路まで備えた軍事拠点に作り上げる…。
無から有を生む中国の戦略を、上田氏はこうまとめています。
「まったく論理的根拠に欠く、意味のないもの」から、もっともらしい論理的根拠をでっち上げ、いつのまにか外見上も立派な実効支配の拠点を作ってしまうのが中国の常套手段である。
(『中国戦略“悪”の教科書』 74ページ)
こうした手口は、今回の処理水の問題でも懸念されることではないでしょうか。中国は、処理水放出の前から輸入規制の強化を行い、国際的にもネガティブキャンペーンを展開していました。さらに、8月24日には日本の水産物の全面輸入停止、25日には日本産水産物の加工・販売も禁止するなどして、日本への批判を強めています。いつのまにか国際世論が中国を支持している、という結果にならないよう、日本政府には確実な対応が求められます。
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本書では、こうした『兵法三十六計』の計略を1つ1つ、同書にある中国の故事と近年の中国の対外政策を交えて解説しています。2013年に起こった海上自衛隊護衛艦へのレーダー照射問題や習近平氏の「微笑外交」等々、中国外交の裏に潜む『兵法三十六計』の思想が、赤裸々に語られています。
2016年刊行の本のため直近の事例は出てきませんが、ここ数年の中国を見ても、『兵法三十六計』の戦略は今なお用いられているように感じられます。
港湾開発の援助を装って借金漬けにし、返済のカタにその港湾の所有権を実質的に奪う「債務の罠」は「抛磚引玉(ほうせんいんぎょく)」(海老で鯛を釣る戦略)か。若者の失業率の公表をとりやめるなど、好ましくないデータを外に出さないのは「樹上開花(じゅじょうかいか)」(能力以上に見せてけん制する戦略。嵩上げ、水増しなど)か…。
本書が示す36の戦略フレームワークは、これまでとこれからの中国の覇権行動を理解するカギを提供してくれます。
同時に、本書はビジネスにも役立ちます。現代中国人が、国際政治のみならずビジネスにおいても『兵法三十六計』を活用していることは、先に引用した通りです。
今後、米国を超えるにしろ大きく減速するにしろ、中国のビジネス界の動向が世界経済に大きな影響を及ぼすことは間違いありません。『中国戦略“悪”の教科書』を読み、彼らの戦略・思考を知っておくことは、チャイナ・リスクに備える上で1つの助けとなってくれるでしょう。
(編集部・西田)
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「編集部員が選ぶ今週のPick Up本」は、日々多くのビジネス書を読み込み、その内容を要約している編集部員が、これまでに『TOPPOINT』に掲載した本の中から「いま改めてお薦めしたい本」「再読したい名著」をPick Upし、独自の視点から読みどころを紹介するコーナーです。この記事にご興味を持たれた方は、ぜひその本をご購入のうえ通読されることをお薦めします。きっと、あなたにとって“一読の価値ある本”となることでしょう。このコーナーが、読者の皆さまと良書との出合いのきっかけとなれば幸いです。
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